「タダの黒い塊が命になった日」
ゆき 雑種 11歳

薄汚れた黒い塊は牛小屋の隅で固まって居た。
ガタガタ震えて。踏まれない様にビクビクし時折移動し乍ら。
11年前。8頭の末娘として生まれた「ゆき」。
上の兄姉は皆、コロコロして可愛かったから直ぐに貰い手が見付かった。
しかしレゲエチックで張り付いてベタベタな被毛を持ち、極度のビビリだったおまえは誰にも見初められる事はなかった。
お母ちゃんだって最初、幼犬らしくないおまえが可愛くなかった。
今だから言える。。。嫌々おまえを引き取ったんだよ。
きっとゆきもそれをとっくに読み取って居たんだろうね。
お母ちゃんの所に来たおまえは声の一つも発する事が無かったばかりか、幼犬がするであろう、スリッパやテーブルの足を囓る事も一切無かった。
病気かと何件もの獣医巡りをしたの、覚えて居るだろう。
何十件行ったろうか。。。行く先々で元々こういう性格だ、珍しい程温和しく、従順だ。。。
と言われ続けた。
そんな子だったのか。。。
常に何十頭も4本脚仲間が集まる社交場では、異口同音に良い子だと言われた。
聴導犬スカウトからも誘われた。素晴らしい子だと。。。
常におまえはお母ちゃんから目を放す事は無かったね?今でも。。。
おまえの視点の先には必ずこの頼りない飼い主が居たんだ。
おまえが3才~頃?お母ちゃんが林で倒れた時、初めておまえは自分の意志でリードを引き摺り林の傾斜を登り、助けを呼びに行ってくれた。
恐らく、その時に初めて吠えたのだろうか?吠えて飼い主の危険を他者に知らせたのだろうか?
獣医に行けば褒められる、お散歩仲間飼い主にはどうすればこんな子になるのか問われる。
老人ホーム、保育園の訪問活動もした。
。。。自分に何もこれといって自慢する要素が無い故、御主人の職業を自慢する主婦、学歴が無いから息子娘を、一流の大学に入学させ、恰も自分の手柄とする母親を軽蔑して居た。
しかし、その軽蔑して居た人種、そのものになって居る自分に気付いた。
お母ちゃんは鼻高々になった。おまえという存在がお母ちゃんを人気者にした。
しかし自分そのものが人気者になったという錯覚をした。
大した事の無い人生を生きて来た。存在価値も解らなかった。
そう、おまえが来てくれるまで。。。
あれから11年。。。
今、おまえは心臓病と腫瘍で闘って居る。
それでも常におまえの焦点はお母ちゃんに絞られて居る。
癒されたいから動物を迎えると言うヒトは多い。
だけれどお母ちゃんは、そんな事微塵も思わなかった。
動物に人間が癒されるワケ無いと頑なに思って居たからね。
しかしその実、どれ程の癒しをおまえから与えられて来たのだろう。
与えられて居た事にさえ気付かなかった。
苦しみに打ち拉がれ、悲しみに胸を抉られ、砂を噛む様な思いの時、いつも、いつでもおまえはお母ちゃんの傍らで優しい眼差しを向ける。
けして侵入的にはならず。。。
暖かい日射しに包まれ、微睡むおまえを撫でる。
お母ちゃんが動くと、おまえは上目遣いにお母ちゃんを見る。
理由も無く溢れ出る涙を瞼の奥に仕舞い込むのに苦労する。
「犬の聖歌」はイコールゆきだと毎日確信する。
だけれどね。。。お母ちゃんは、今怖いんだ。おまえがお母ちゃんの元から居なくなる事。。。それが何よりも恐怖なんだ。
今、この一瞬が幸せだと感じるから壊れてしまうその刻が恐ろしい。
ゆき。。。
クローンを真剣に考えたよ。だけどゆきはゆきなんだね?今、この瞬間を生きるから価値が有るのだろう。
おまえは、タダの汚い雑種だった。名も無い、雑種。。。しかし犬種名も類も凌駕して
しまった。ゆきはゆき。。。
お母ちゃんはゆきがゆきでなければイヌというモノをここまで愛おしく思えなかったろう。
きっとそれはおまえが努力してくれたから。。。
おまえはお母ちゃんに取り、当然、ペットなんかではない。
伴侶動物でも、ない。家族?。。。いや違うよ。おまえはお母ちゃんに取って「命」そのものなんだ。。。
柔らかく暖かいおまえの体を抱き締める。。。冷えた心も暖かくなって来る。
一緒に歩き乍ら、お互い目と目で会話する。
。。。何もかもが愛おしい。おまえの一挙手一投足がお母ちゃんを暗闇から引っ張り出してくれる。
いつからだろう?おまえがお母ちゃんの「命」になったのは。。。
